ゲルタ・ストラテジー

唯一神ゲルタヴァーナと怒れる十一の神々に敬虔なる真理探究者たちの散兵線における無謀を報道する。

syamu_gameとコメント欄

 なんかやっぱり新しいことやらなくちゃいかんな。毎日同じことくりかえしていたんじゃ気が滅入るよ。同じことくりかえすのが「投資」になっていれば結構だが、「消費」であったらもうダメだ。おお、つまらん経済用語を使ってしまった。
 
 syamu_gameはその点、毎日同じことをくりかえしてはいたんだが(動画配信)、部分的には新しい取り組みにもチャレンジしていたし(音楽、小説、竹林の絵)、なによりそれらはすばらしい「投資」になっていた。だってそうだろう。あの可愛らしい作品群は、みごとわれわれを魅了し、とりこにし、そしてついにsyamu_gameはそこいらのインフルーエンサーを凌ぐ大人物になったのだから。あの一連の動画、音楽、小説がなければ、かれはそうなってはいなかった。かれ自身意識していたかどうかは怪しいけれども(いや、かれだけがそれを意識していたのかもしれないけれど)、ああした活動は間違いなく「投資」だったのだと思うよ。

 そんでもっておれたちはどうするか、ってことを考えないといけないよ。おれたちはsyamu_gameというひとりの王者によって打ち立てられた、新鮮な人生の規範を間近に目撃することができた。それを模倣して生きていかない手は、ないじゃないか。われわれにはかつてsyamu_gameを嘲弄していた時期もあったよ。けれど、いまやはっきり認めなきゃなるまいて。syamu_gameこそ全軍を指揮する将であり、われわれは田舎から出てきた一兵卒。遠くから指揮官の姿を眺め、「軍服の着こなしが変だ」とか「しゃべり方が妙だ」などとつまらんこと言っては、怠惰な兵営生活を送っているのが、われわれなのだ。つまり、われわれはつまらん大衆だ。

 大衆であることを自覚し、大衆であることを脱しよう。現代社会では「爵位」は廃され、「貴族」はいない、とされている。けれど、だからと言って、かつて「貴族」の徳としてもてはやされたものが、その価値を失ってしまったわけではないのだ。教養、気品、勇気、気高さ、誠実、鷹揚さ……。そうした性質をこそ、鍛錬によって身につけたらどうだろうか。おれは、ぜひそうしたいと思っているよ。そしてそのうちのいくつかを、syamu_gameは有しているよ。syamu_gameはおれたちの先生なんだからな。

 syamu_gameに対して、「親のスネをかじって生きているからあいつは人間として最低の人種だ。天罰を望む」などと言い、ちょっぴり満足感を覚えて楽しむような暗い生き方は、やめようじゃないか。だいたい、だれがだれのスネをかじろうと自由ではないか。それを裁く権利はわれわれにはないじゃないか。スネをかじる側とかじられる側の合意ではないか。なぜとやかくジャッジメントしたがるのか、大衆のわれわれは。それは貴族的な性格とは言えませんぞ。そもそも親の財産を継承して生きることは、別に、珍しいことでもなんでもないだろうに。歴史の長い家ってのは、先祖代々そうやってきたんだぜ。われわれは口をつぐみ、大衆であることをやめよう。

 syamu_gameの動画を(コメントつきで)見ていると、どうも、おれは神聖な王権と貴族、そして大衆、という構図を意識してしまうんだよな。

 ま、そうは言ったが、つまらんことだな。そんな見識は世界が狭いよ。大衆だの貴族だのと人間を区別するのは、やっぱり間違っているんだからな。みんなそれぞれ与えられた世界で、最善を尽くそうと奮闘しているんだ。そのいじらしい奮闘にケチをつけるようじゃ暗いよ。おれも、ずいぶんと暗い。いかんいかん。愉快にやらなくちゃね。みんなの、あらゆる試みが、うまくいくといいよ。syamu_gameは幸福にならなくちゃいかん。同様に、われわれも楽しくやろうじゃないか。

 楽しくやるためには、syamu_gameのあの神聖な愚直さも必要なんではないかな、と思ったまでのことさ。別に、おれはだれかを非難したいわけじゃないし、卑下するつもりもない。批判がましい口調になっちまうのは、おれの自意識がどうも、ひねくれていて浅ましいのだな。改良しないといけないよ。

 各人はなぜだかわからないがこの地上に産み落とされた。目的もなく、指針もなく、波高く風激しいこの海を、切り抜けていかなきゃならん。切り抜けて進んだ先には、平等に死と虚無が口をひらいて待っている。おれたちが必死になって心配しなくたって、大丈夫だ。すべて人生は無意味、無、無、無で終わると決まっている。おれたちが決めなくても、自然がそう決めてくれている。だからいっさいの責任は放棄してよろしいし、いっさいのいがみ合い、いっさいの悩み、そうしたものは砂の上に建てた幻影の城なんだろうぜ。稼いだ財産は死ぬときにゃぜんぶ捨てるんだ。身につけた知識や気品も死の前では塵そのものだろう。要らんのだ、たいていのことは。永遠はありえんのだ、なにごとにつけても。

 syamu_gameは貝塚のこじんまりとした一室で、ひとり波にあらがっている。だからかれだけが偉いかといえばそうじゃなくて、みんな、同じようなものなんじゃないかな。職場で、学校で、家庭で、ひとり、たったひとり、混乱のなか波の上を漂っている。みな、可哀想なやつだよ。

 syamu_gameを祝福しようじゃないか。宇宙発生以来、syamu_gameに出会えるのはまさにいま、この世紀だけなのだ。syamuの前にsyamuはなく、syamuのあとにsyamuはないのだ。そして同じく、おれはいまだ世に名を知られていない諸君全員に、心をこめて挨拶を送る。

「オイイイイィィィイイイッス!」