ゲルタ・ストラテジー

唯一神ゲルタヴァーナと怒れる十一の神々に敬虔なる真理探究者たちの散兵線における無謀を報道する。

syamu_gameと心理学

 人間はあらゆるものに依存する。苦しみにさえも。

 

 syamu_gameの動画をおれが見はじめたのは、かれが長崎大麻の……じゃなくて、「長崎対馬の浜見塩」のあのオモシロ回を投稿していた時期からだ。夏だったよね。ありゃ、見るのが苦痛だったよ。面白い瞬間はたったの数秒だけだもんな。対馬を「大麻」と言い間違える瞬間と、ポテチをふたつ重ねて食おうとして、やっぱ諦めて、諦めた刹那かれに智慧の女神ポイボス・アポローンの託宣が下りてきて、ひらめき、二種類のポテチそれぞれの袋から一枚ずつポテチをとりだし、食う。そのシーンだけだった。そのシーンのためだけに、他の退屈な場面を何分も見なきゃならなかった。端的に言って人生の浪費だし、どうしようもない。

 

 そんでもあの動画はなんだかそのあともずっと忘れられずに、機会のあるたびごとに見直していたんだからおれも相当な狂人だ。そう思っていた。けれど、どうやらそうでもないらしいことが徐々にわかってきた。おれ以外にも、この動画を嬉々として再生しまくる人種がこの世の中にはあるらしい。

 

 ようは、パチンコなんかと同じなんだろうな。本当にたまにしかやってこないビッグ・ボーナスを求めて、ただただ万札が飲み込まれていく苦しい時間を過ごす。その時間は本当に辛いのだけれど、頭の中では「当たる、当たる」と妄想しているものだから、思考上ではこの苦痛の時間さえも「楽しい時間の一部」として認識されてしまう。syamu_gameの動画は視聴するのが大変苦しいのだけれど、ビッグ・ボーナスも確かに存在するから、ついつい、ハマってしまうのだ。時間という名の、万札なんかよりもずっと貴重な財産をパッキーにぶち込み続けてしまう。

 

 そんな救いようのないギャンブル中毒者こそがsyamu_gameの主だった視聴者層であり、おれもまたそんなしょうもない連中の仲間だったのだ。

 

 だが、ちょっと待ってほしい。よく考えてみよう。およそこの世の娯楽とされているもののなかで、このシステム(苦痛の中にビッグ・ボーナスを混ぜること)をもちいていないものがあるだろうか? ……よくよく考えてみようよ。どうだ。ないんじゃないのか?

 

 たとえば、二郎系ラーメン。ありゃ苦痛だろうぜ。胃をぱんぱんに膨れ上がらせて、吐き気と腹痛をこらえながら、時には目尻に涙すら浮かべて麺をすすらなきゃいけない。それでも時々感じる豚のアブラの甘みカネシの辛さのハーモニーが、いわばこの食欲のパチンコにおけるビッグ・ボーナス。これを求めておれたちは黄色い看板によろよろと立ち寄ってしまう。店外に香るニンニク・スメルを嗅ぎつけようものなら、胃の腑の奴がギューッと収縮して、「おれにあの脂肪と塩分の快楽をおくれよ」と駄々っ子みたいに泣き叫ぶじゃないか。入店、注文、着丼、完食、帰宅の流れを注意深く観察してみると、しかし、やっぱり快楽の瞬間というのは瞬く間に終わってしまう。長い苦痛のなかに、ちょっぴり快楽が混じっている。それだけのことなのだ。二郎系ラーメンに関わる時間のうち、いったい何分が、いや、何秒が本当に「楽しい」時間なのだ? それを考えるとおれは、恐ろしくなってくるよ。注文が楽しい? いや、それは「妄想」の結果だと思うよ。「注文したらラーメンが来る」という、己の狭い経験にのみ基づく、実に根拠の薄い妄想が「注文=楽しいこと」と錯覚させるのだ。だって、コワモテのラーメン職人に食券プラスチックプレートを示して妙な呪文を唱えるのなんて、それだけ取り出してみれば、ぜんぜん娯楽になっていないじゃないか。「注文」フェイズだけやりたいです、ラーメンは要らないですって人、いないだろうに。

 

 このように、例をあげようと思えばいくらでも挙げられる。食事以外にも、恋愛、生殖、飲酒、賭博、運動、競技、学問、会話などなど……考えてみれば、どれも「快楽はちょっぴり、苦痛はマシマシ」ってのがその正体じゃないか。「いいや、全編通して快楽ですよ」というのは、やっぱり妄想なんだよ。じゃあその全編の、おれの指定する一部分だけを取り出して毎日実行してみなさいよ、とわたしは言いたい。もっとわかりやすいたとえで言えば、「絶対にアタリがでないパチンコを3時間プレイしてみなさいよ」と。苦行でしょう。楽しくないでしょう。でも、それが真実なんだよ、きっと。おれたちは「娯楽」と称して、そのじつ苦行をしていることのほうがはるかに多いのだ。

 

 裏を返せば空海著・密教経典『釈牟_偈無 心経』頻出の語)、娯楽をつくり、それによって金銭を得ようと考えている人々は、そう難しく頭を悩ませる必要はないのだってことさね。syamu_game動画が与えるあの耐えがたい苦痛ですら、条件がそろえば人間は「これは快楽だ」と錯覚してしまうのだから。だから、まずはへたくそでもいいからなにかつくって発表することだよ。退屈でもなんでもいいのだ。いま、「娯楽をつくり――」と書いたから、「これはクリエイター向けに発した言葉なんだな」と誤解してもらっては困るよ。あらゆる仕事は娯楽を生み出す仕事だよ。医者でさえ、健康という、広い意味での娯楽を生み出すのだ。つまり、快楽をだ。でも、これまで見てきた通り、たいていの人間は苦痛のなかにちょっぴり快楽が含まれているだけで、「これは全体がすばらしい快楽だ、完璧だ」と妄想して見事ハマってくれるんだから、チョロいよ。

 

 苦痛のもたらし手であるあのsyamu_gameですら時の人となった。諸君も、なにごとをも恐れず、おおいに自己表現すべし。たとえそれが苦痛に満ちたものであってもよろしいのだ。まずは、着手せよ。そうすりゃなんとかなるぜ。これがおれの見出した心理学の応用だ。