ゲルタ・ストラテジー

唯一神ゲルタヴァーナと怒れる十一の神々に敬虔なる真理探究者たちの散兵線における無謀を報道する。

上座部仏教がヤバいよ

 みなさんご存じだろうか。いま、上座部仏教がヤバい。

 おれの生半可な知識じゃたいしたことは語れないし、事情通からしたら「いまさら?」とか「そんなことはもう20年間前からずっと言われていることだよ」と指摘されそうだけれども、いま、おれの知りうる限りのことをここに記す。

 結論から言うと、いま、日本の仏教シーンは、のちのち間違いなく日本史の教科書に載るような驚くべき転換期を迎えている。

1.上座部仏教とは?

 上座部仏教ってのは「小乗仏教」と呼ばれることもある、仏教の一流派。

 インド→中国→韓国? を経由して日本に伝わってきたのはご存じ「大乗仏教」。日本各地に寺院をもつ仏教の流派――天台宗真言宗も浄土宗も禅宗日蓮宗も、ぜんぶ「大乗仏教」。対する「上座部仏教」=「小乗仏教」はミャンマーやタイ、スリランカカンボジアなどに根付いた仏教。

 よく動画や写真なんかで見る、オレンジ色の袈裟を着て、毎朝托鉢(食べ物を乞い歩くこと)を行列でやってる仏教が「上座部仏教」だ。アジアの南のほうで盛んなやつだ。

 一般的に言われるのは、「大乗仏教」は人間みんなの救済をめざす「大きな乗り物」の教えであるのに対し、「小乗仏教上座部仏教)」は教えに従う個人個人の救いをめざす、「小さな乗り物」の教えである。

 その見解は、おれから見て、だいたい正しい。が、多分に「大乗仏教」勢力の偏見が含まれている。「小乗仏教」はたしかに個人の修行の完成を目的とするものである。しかし、だからといって、「みんなを救う教えはありがたく、個人の救いを求める教えは、エゴイスティックであり劣っている」というのは違う。

 だってそうだろう。「1+1=2というのは夢も希望もなくてつまらない。1+1=3というのが実にありがたい。3は2より大きいんだからね。だからわれわれは1+1=3を信仰する」と数学者が言い出したら狂人扱いだ。「数がいっぱいのほうがとにかくイイ」というのはバカげている。

 1+1=2が厳然たる真理だとするなら、とやかく言わずそれを「是」とするほかない。

 おれはこの眼で見てきたわけじゃないからわからんが、ブッダが「修行によって個人が悟れ。他を頼るな(自灯明)」と言ったとするなら、それが仏教的には正しいのじゃないだろうか。個人よりも大衆を救うほうがありがたい(大乗仏教)、というのは心情としてはわかるけど、真理を(教祖=ブッダの言葉を)曲げてまで言うことかね。かっこつけすぎなんじゃないかね。

2.日本における上座部仏教の受容

 日本は言わずもがな大乗仏教の国だ。大乗仏教にコミットする人々は、この世に「小乗仏教」なるものが存在することは知っていた。だが、それは遠い昔、ブッダの教えから分派したくだらない異端であって、いまどこで誰が信仰しているのかは知らないし、おおかた、滅びたんじゃないの、ま、どうでもいいけどね、といった程度の見識しかもっていなかった(のだと思う。違うかも)。

 小乗仏教上座部仏教はしかし、日本人の知らないところで、生き続けていた。スリランカ――仏教発祥の地にほど近いうるわしの島国や、その東の地で。

 細かい歴史(明治時代の真言宗僧侶の小規模な運動など)は省くとして、大筋から言うと、この「死んだと思ってた」上座部仏教は、昭和末期から平成初頭、そして2000年・2010年代のいまになって、ついに日本に上陸するに至ったのだ。

 ただそれだけのことなら、日本の宗教の流派がひとつ増えたくらいのことで、なにもおれが騒ぎ立てるようなことじゃない。

 だが、現に、こう、騒がずにはいられないほどのインパクトをかれら(上座部仏教)はわれわれにもたらしているのだ。

 いったいどういうことか? それをわかりやすく示すとするなら、そうだな、大きな書店の、「仏教書」コーナーに足を運んでみてほしい。どんな本が陳列されている? おおかた、こんな文句ばかり見ることだろう。「マインドフルネス」「瞑想」「ヴィパッサナー」。

 日本の書店の「仏教書」ブースは、いま、完全に上座部仏教系の出版物で占領されている。上にあげた「マインドフルネス」だとか「ヴィパッサナー」だとかいうのは、ぜんぶ、上座部仏教における「実践(瞑想・修行)」方法のことだ。そしてそのメソッドは、主に都市圏に暮らす日本人に広く受容されつつある。具体的には、瞑想法が「実際にスゴイ効果がある」ので、はやっている。

3.上座部仏教にあって、大乗仏教にないもの

 現代の、それも都市の先進的な人間たちがいまさら「仏教」にハマるような事態は、ちょっと妙だ。だって、おれも埼玉県の北部の田舎育ちで、なにかと行事の際には仏教(真言密教)に関わって生きてきたけれど、別段魅力を感じなかったものな。だってあんなのオカルトだもの。念仏だか真言だかしらんが、坊主がぶつぶつと古代の外国語を唱えて、エイヤっと数珠だかバジュラだかを振り回して、そんで「故人は成仏しました」みたいなことをケロリと言いやがるんだ。ちょっとついていけないよ。みんな創価学会やら幸福の科学やらをバカにするけれど、なかなかどうして、伝統的な日本の仏教やら神道やらだって、トンデモな儀式をやるだろうに。お互い、バカにできないよ。

(ゲルタヴァーナはそんなんじゃない)

 そこへくると上座部仏教は「祈り」とか「呪文」なんかを使わない(経典の音読・暗誦はする)。教えのメインは「瞑想」だ。そしてその瞑想は、びっくりすることだが、確かに「これを続けていけば悟れるんじゃないのか?」と思わせるような現象を引き起こす(感覚や脳にちょちょいといたずらをするメソッドが満載なのだ)。おれも実際にやってみたんだが(サマタ瞑想というやつ)、こりゃスゴイや。なるほど幻想的な体験だ。それでいて、変な物質を身体に入れない、じつに健康的で経済的な愉しみだ。詳しいやり方は調べてみてほしい。

 大乗仏教にはこういう「具体的」で「実践的」なメソッドがなかった。オカルト満載だった。呪文とか、焼香の手順とか、そんなのばっかりで、現代人(都市の人々)には魅力的に映らなくなってしまった。

 対照的に、上座部仏教は呪文や儀式を軽蔑し(厳密に言うと、じつはそうでもないのだが)、瞑想、呼吸、思考、行動などの、具体的実践的な教えを伝授してくれるから、いま注目されているみたい。聞くところによると、医学界にも注目されているとか。

 上座部仏教が日本を征服する日は近い。いや、それは言いすぎだけども、近い将来日本史の教科書にはこうした経緯が載るんじゃない? 間違いないよ。日本仏教界はいま、上座部仏教抜きじゃ語れない状況でしょう。その状況はきっと、一時的なものに留まらないと思う。上座部の寺院は増えるだろうし、出家の比丘(坊主)による托鉢なんかも始まりそうな形勢だね。新宿や渋谷でオレンジ色の袈裟が見られるかもね。