ゲルタ・ストラテジー

唯一神ゲルタヴァーナと怒れる十一の神々に敬虔なる真理探究者たちの散兵線における無謀を報道する。

syamu_gameとコメント欄

 なんかやっぱり新しいことやらなくちゃいかんな。毎日同じことくりかえしていたんじゃ気が滅入るよ。同じことくりかえすのが「投資」になっていれば結構だが、「消費」であったらもうダメだ。おお、つまらん経済用語を使ってしまった。
 
 syamu_gameはその点、毎日同じことをくりかえしてはいたんだが(動画配信)、部分的には新しい取り組みにもチャレンジしていたし(音楽、小説、竹林の絵)、なによりそれらはすばらしい「投資」になっていた。だってそうだろう。あの可愛らしい作品群は、みごとわれわれを魅了し、とりこにし、そしてついにsyamu_gameはそこいらのインフルーエンサーを凌ぐ大人物になったのだから。あの一連の動画、音楽、小説がなければ、かれはそうなってはいなかった。かれ自身意識していたかどうかは怪しいけれども(いや、かれだけがそれを意識していたのかもしれないけれど)、ああした活動は間違いなく「投資」だったのだと思うよ。

 そんでもっておれたちはどうするか、ってことを考えないといけないよ。おれたちはsyamu_gameというひとりの王者によって打ち立てられた、新鮮な人生の規範を間近に目撃することができた。それを模倣して生きていかない手は、ないじゃないか。われわれにはかつてsyamu_gameを嘲弄していた時期もあったよ。けれど、いまやはっきり認めなきゃなるまいて。syamu_gameこそ全軍を指揮する将であり、われわれは田舎から出てきた一兵卒。遠くから指揮官の姿を眺め、「軍服の着こなしが変だ」とか「しゃべり方が妙だ」などとつまらんこと言っては、怠惰な兵営生活を送っているのが、われわれなのだ。つまり、われわれはつまらん大衆だ。

 大衆であることを自覚し、大衆であることを脱しよう。現代社会では「爵位」は廃され、「貴族」はいない、とされている。けれど、だからと言って、かつて「貴族」の徳としてもてはやされたものが、その価値を失ってしまったわけではないのだ。教養、気品、勇気、気高さ、誠実、鷹揚さ……。そうした性質をこそ、鍛錬によって身につけたらどうだろうか。おれは、ぜひそうしたいと思っているよ。そしてそのうちのいくつかを、syamu_gameは有しているよ。syamu_gameはおれたちの先生なんだからな。

 syamu_gameに対して、「親のスネをかじって生きているからあいつは人間として最低の人種だ。天罰を望む」などと言い、ちょっぴり満足感を覚えて楽しむような暗い生き方は、やめようじゃないか。だいたい、だれがだれのスネをかじろうと自由ではないか。それを裁く権利はわれわれにはないじゃないか。スネをかじる側とかじられる側の合意ではないか。なぜとやかくジャッジメントしたがるのか、大衆のわれわれは。それは貴族的な性格とは言えませんぞ。そもそも親の財産を継承して生きることは、別に、珍しいことでもなんでもないだろうに。歴史の長い家ってのは、先祖代々そうやってきたんだぜ。われわれは口をつぐみ、大衆であることをやめよう。

 syamu_gameの動画を(コメントつきで)見ていると、どうも、おれは神聖な王権と貴族、そして大衆、という構図を意識してしまうんだよな。

 ま、そうは言ったが、つまらんことだな。そんな見識は世界が狭いよ。大衆だの貴族だのと人間を区別するのは、やっぱり間違っているんだからな。みんなそれぞれ与えられた世界で、最善を尽くそうと奮闘しているんだ。そのいじらしい奮闘にケチをつけるようじゃ暗いよ。おれも、ずいぶんと暗い。いかんいかん。愉快にやらなくちゃね。みんなの、あらゆる試みが、うまくいくといいよ。syamu_gameは幸福にならなくちゃいかん。同様に、われわれも楽しくやろうじゃないか。

 楽しくやるためには、syamu_gameのあの神聖な愚直さも必要なんではないかな、と思ったまでのことさ。別に、おれはだれかを非難したいわけじゃないし、卑下するつもりもない。批判がましい口調になっちまうのは、おれの自意識がどうも、ひねくれていて浅ましいのだな。改良しないといけないよ。

 各人はなぜだかわからないがこの地上に産み落とされた。目的もなく、指針もなく、波高く風激しいこの海を、切り抜けていかなきゃならん。切り抜けて進んだ先には、平等に死と虚無が口をひらいて待っている。おれたちが必死になって心配しなくたって、大丈夫だ。すべて人生は無意味、無、無、無で終わると決まっている。おれたちが決めなくても、自然がそう決めてくれている。だからいっさいの責任は放棄してよろしいし、いっさいのいがみ合い、いっさいの悩み、そうしたものは砂の上に建てた幻影の城なんだろうぜ。稼いだ財産は死ぬときにゃぜんぶ捨てるんだ。身につけた知識や気品も死の前では塵そのものだろう。要らんのだ、たいていのことは。永遠はありえんのだ、なにごとにつけても。

 syamu_gameは貝塚のこじんまりとした一室で、ひとり波にあらがっている。だからかれだけが偉いかといえばそうじゃなくて、みんな、同じようなものなんじゃないかな。職場で、学校で、家庭で、ひとり、たったひとり、混乱のなか波の上を漂っている。みな、可哀想なやつだよ。

 syamu_gameを祝福しようじゃないか。宇宙発生以来、syamu_gameに出会えるのはまさにいま、この世紀だけなのだ。syamuの前にsyamuはなく、syamuのあとにsyamuはないのだ。そして同じく、おれはいまだ世に名を知られていない諸君全員に、心をこめて挨拶を送る。

「オイイイイィィィイイイッス!」

ルノアール新小岩店に、集まれ

 ルノアール新小岩店はすばらしい店なので、みなさん足を運んでみてください。おれは土日はたいていそこにいるからね。おごるぜ。

 ルノアール新小岩店はルノアールの名前を冠しているくせに、ふつうのルノアールとはぜんぜん違う雰囲気・メニュー・価格の妙な喫茶店だからおもしろい。

 まず雰囲気だけれども、なんというか、「昭和」だ。そうそう、こないだ可愛らしいお嬢さんと自動ドアの前ですれちがったんだけれども、店に一歩足を踏み入れるやいなや、「昭和……」とつぶやいていたよ。そんくらい昭和だよ。おれの主観じゃない。来るやつみんな「昭和」って言う。なにが昭和かって、まず、ほとんど店の全域が喫煙可能だ。禁煙席もあるが、はっきり区切られているわけじゃない。なんか、境界が曖昧だ。空調のおかげで、煙は禁煙席に流れないようにちゃんとなってるけど、でも、敏感な人はダメだろうと思うよ。この店は全席喫煙可だと覚悟して入ったほうがいいね。それから調度品が昭和だ。ソファがあのルノアール特有の高級感あるもこもこのやつじゃなくて、ビニールの、くすんだグリーンやベージュの、くたびれて黄ばんだ、愛嬌のある感じのやつだ。清潔感よりも愛嬌で売っている。おれはこういうの、好みなんだな。そんでもって客層が昭和だ。ルノアールといったら街中の喫茶店のうちでは高級な部類で、利用するのはだいたいビジネスマンか宗教勧誘と相場が決まっているけれども、新小岩店は違う。競馬で負けてふてくされてる地元のオジンがメイン・ターゲットだ。客の7割は競馬新聞を眺めている。またはスポーツ新聞を広げている。そんで店員にからんでいる。「あの馬券が70万だってよ。おれも買っておけば……」とか、「パチンコやるやつはバカだね。すぐに万札飲み込まれるもんな。競馬はその点100円で一攫千金、愉快なもんだよ」とか、そんなことばかりのたまっている。店員は客あしらいに手慣れたもんで、適当な相づちを打って笑っている。独特の、いい雰囲気だ。

 メニューも変わっている。まず、モーニングセットが開店から昼の15時まで注文可能だ。新小岩の定義では、モーニングってのは15時までの時間帯を言うらしい。そういう寝ぼけた感じの設定は、おれ、最高だと思うね。おおいによろしいじゃないか。人間、怠けているときは昼過ぎまで寝ちまうもんな。そんで目覚めて「朝飯でも喰うか……」という気分になったとき、ルノアール新小岩店は諸手をあげてわれわれを歓待してくれる。じつに、涙が出るほど嬉しいね。モーニングは「ハーフ・トースト」50円。「厚切りトースト」100円。このどちらかがオススメだ。確か(間違ってたらごめんよ)どっちにもゆで卵がつくよ。ワンコインだが、ボリュームもけっこうある。あと、コーヒー(ホットもアイスも)のおかわりは一杯100円だ。無限に100円でおかわりできる。だいたいおれも愉快な気持ちでおかわりコールを1、2回する。ガムシロップをアイスコーヒーにどばっと入れて、甘い甘いとつぶやきながらゆで卵をアイスコーヒーで流しこむ。これが至福の時間なんだな。おれはいつも100円の厚切りトーストを注文するんだ。ちなみに一杯目のアイスコーヒーは510円だ。これも、都心部ルノアールに比べたら安いほうじゃないかね。場所によっては、もう100円、200円高かったと思うよ。おかわりサービスはもちろん、新小岩店だけだろうしね。おれも、そんなにいろんなルノアールに行ったことがあるわけじゃないから、わからんけど。あと、目玉はランチメニューだ。カツ丼、チキンカツ定食、からあげ定食、かにクリームコロッケ定食……およそ「ルノアール」には似つかわしくないような定食が、われわれ武士(もののふ)の胃の腑を満たすべく、ばっちり完備されている。こっちもちゃんとウマいぞ。900円前後で、コーヒーもついてくる。だもんだから、おれは休日の栄養はもっぱらルノアール・オンリーだ。つい、たむろしちまうよな。新小岩店はいいぜ。

 おごるからな。みんな来てみてくれよ。

貴公にだけ、内緒で送る言葉

・仕事は人生ではありません。

 仕事は人生ではありません。金銭を稼ぐ一時的な手段にすぎません。金銭を稼ぐことは人生ではありません。食事が人生ではなく、その一部にすぎないのと同じように。

 食事をする時間が長ければ長いほど、その人は「よく生きた」と言えますか? いいえ、言えません。だって、もしそうなら、休日はずっと食卓の前に座り、食物を胃に詰め込み続けるのが「正解」ってことになるでしょう。そんなことは絶対にない。

 同様に、仕事に従事した時間が長い人が偉いとか、スゴイとか、そんなことはまったくの嘘なのです。

 仕事の質、量、報酬を自慢する人は、食事にかけた時間、食事のおいしさ、食事の値段を自慢している人なのです。ありていに言えば、獣の仲間なのです。われわれはともすれば獣じみた生に惹かれがちな性質をもっていますが、理性でそれを打破しなくてはいけません。世間の言うことはたいてい、間違っています。世間は賢者ですか? 世間は古今東西のあらゆる哲学を渉猟し、あらゆる実践を積んだ総体ですか? いいえ、そうではありません。世間は愚者の群れです。そう言って悪ければ、「正解」を求めて苦しみ、悩み、さまよっている、迷子の羊です。

 羊の言葉に耳を貸さないでください。羊を愛でるのは結構ですが、自分も羊になりたいなどと考えるのはよしてください。

 獅子の、気高き王者の言葉をこそ胸に刻みつけてください。

 歴史上にはたくさんの獅子がいました。そのひとりは、ソクラテス

・依存するものは少ないほうがよろしいのです。

 高貴な人間とはどういう人間ですか? 依存するものが少なくて済んでいる人間のことです。つまり、独力(スタンドアロン)でなりたっている人間です。神々に近い人間のことです。

 しかし、世間はよく「依存せよ」とわれわれに助言してきます。たとえば、電車に乗れば否応なしにこんな広告の文句が飛び込んできます。「健康のために青汁を飲みましょう(青汁がなければ人生を謳歌できないような者は、脆弱です)」「休日は長野へ旅に行きましょう(長野に行かなければ楽しみを見いだせないような者は、盲目です)」「この本を買って賢くなりましょう(青年になっても親しく付き合うべき古典を知らないような者は、無教養です)」。

 広告は依存のススメです。依存というのは、なにも麻薬や恋人関係に限ったことではないのです。われわれは商品を買うよう誘導され、やがて、視覚の刺激、味覚の刺激、触覚の刺激、聴覚の刺激、嗅覚の刺激、言葉(ロゴス)の刺激に依存します。神々に近しい生物であるわれわれは、たちまち獣の境遇へと蹴落とされてしまいます。

 できるだけ、なにも持たないほうがいいのです。恋人などは、ないほうがいいのです。ハマっているゲームなどは、捨てるのがいいのです。

 先哲、獅子、王者たちの金言を胸に抱いて、しっかり二本足で立つのです。

・孤独こそが聖なる生き方です。

 世間は「孤独は暗いもの。群れは明るいもの、望ましいもの」と言います。これは嘘です。群れは望ましい、好ましいものではありません。人間が社会的動物(ゾーン・ポリティコン)であるから、仕方なく形成するものです。本当は、そんなものないほうがいいのです。できる限りの力をつくして、孤独を求めるようにするべきなのです。徐々に、段階的に、世間との関わりを断つのです。(それでも、最小限の関わりは捨て去りきれません。それは人間の根幹をなすシステムなので、あきらめます)。

 孤独は最高の境遇です。力の充実を身に実感しながら生きる。これは、まさしく英雄に比すべき態度と言えます。

 飲み会はすべて断りましょう。出席してもいいが、飲んで、乱れるのはやめましょう。あなたは真理の道を歩んでいる。つり帯には長い剣がぶら下がっている。酔って、その剣を台無しにしないように。せっかくフランソワ一世からいただいたものだから。

 以上、自戒。

 だれに向けて語ったわけでもないのです。わたしのみが実践すればいいのです。黙して、ただ歩め。獅子が無理なら、せめてサイのごとく、独り、歩め。

上座部仏教がヤバいよ

 みなさんご存じだろうか。いま、上座部仏教がヤバい。

 おれの生半可な知識じゃたいしたことは語れないし、事情通からしたら「いまさら?」とか「そんなことはもう20年間前からずっと言われていることだよ」と指摘されそうだけれども、いま、おれの知りうる限りのことをここに記す。

 結論から言うと、いま、日本の仏教シーンは、のちのち間違いなく日本史の教科書に載るような驚くべき転換期を迎えている。

1.上座部仏教とは?

 上座部仏教ってのは「小乗仏教」と呼ばれることもある、仏教の一流派。

 インド→中国→韓国? を経由して日本に伝わってきたのはご存じ「大乗仏教」。日本各地に寺院をもつ仏教の流派――天台宗真言宗も浄土宗も禅宗日蓮宗も、ぜんぶ「大乗仏教」。対する「上座部仏教」=「小乗仏教」はミャンマーやタイ、スリランカカンボジアなどに根付いた仏教。

 よく動画や写真なんかで見る、オレンジ色の袈裟を着て、毎朝托鉢(食べ物を乞い歩くこと)を行列でやってる仏教が「上座部仏教」だ。アジアの南のほうで盛んなやつだ。

 一般的に言われるのは、「大乗仏教」は人間みんなの救済をめざす「大きな乗り物」の教えであるのに対し、「小乗仏教上座部仏教)」は教えに従う個人個人の救いをめざす、「小さな乗り物」の教えである。

 その見解は、おれから見て、だいたい正しい。が、多分に「大乗仏教」勢力の偏見が含まれている。「小乗仏教」はたしかに個人の修行の完成を目的とするものである。しかし、だからといって、「みんなを救う教えはありがたく、個人の救いを求める教えは、エゴイスティックであり劣っている」というのは違う。

 だってそうだろう。「1+1=2というのは夢も希望もなくてつまらない。1+1=3というのが実にありがたい。3は2より大きいんだからね。だからわれわれは1+1=3を信仰する」と数学者が言い出したら狂人扱いだ。「数がいっぱいのほうがとにかくイイ」というのはバカげている。

 1+1=2が厳然たる真理だとするなら、とやかく言わずそれを「是」とするほかない。

 おれはこの眼で見てきたわけじゃないからわからんが、ブッダが「修行によって個人が悟れ。他を頼るな(自灯明)」と言ったとするなら、それが仏教的には正しいのじゃないだろうか。個人よりも大衆を救うほうがありがたい(大乗仏教)、というのは心情としてはわかるけど、真理を(教祖=ブッダの言葉を)曲げてまで言うことかね。かっこつけすぎなんじゃないかね。

2.日本における上座部仏教の受容

 日本は言わずもがな大乗仏教の国だ。大乗仏教にコミットする人々は、この世に「小乗仏教」なるものが存在することは知っていた。だが、それは遠い昔、ブッダの教えから分派したくだらない異端であって、いまどこで誰が信仰しているのかは知らないし、おおかた、滅びたんじゃないの、ま、どうでもいいけどね、といった程度の見識しかもっていなかった(のだと思う。違うかも)。

 小乗仏教上座部仏教はしかし、日本人の知らないところで、生き続けていた。スリランカ――仏教発祥の地にほど近いうるわしの島国や、その東の地で。

 細かい歴史(明治時代の真言宗僧侶の小規模な運動など)は省くとして、大筋から言うと、この「死んだと思ってた」上座部仏教は、昭和末期から平成初頭、そして2000年・2010年代のいまになって、ついに日本に上陸するに至ったのだ。

 ただそれだけのことなら、日本の宗教の流派がひとつ増えたくらいのことで、なにもおれが騒ぎ立てるようなことじゃない。

 だが、現に、こう、騒がずにはいられないほどのインパクトをかれら(上座部仏教)はわれわれにもたらしているのだ。

 いったいどういうことか? それをわかりやすく示すとするなら、そうだな、大きな書店の、「仏教書」コーナーに足を運んでみてほしい。どんな本が陳列されている? おおかた、こんな文句ばかり見ることだろう。「マインドフルネス」「瞑想」「ヴィパッサナー」。

 日本の書店の「仏教書」ブースは、いま、完全に上座部仏教系の出版物で占領されている。上にあげた「マインドフルネス」だとか「ヴィパッサナー」だとかいうのは、ぜんぶ、上座部仏教における「実践(瞑想・修行)」方法のことだ。そしてそのメソッドは、主に都市圏に暮らす日本人に広く受容されつつある。具体的には、瞑想法が「実際にスゴイ効果がある」ので、はやっている。

3.上座部仏教にあって、大乗仏教にないもの

 現代の、それも都市の先進的な人間たちがいまさら「仏教」にハマるような事態は、ちょっと妙だ。だって、おれも埼玉県の北部の田舎育ちで、なにかと行事の際には仏教(真言密教)に関わって生きてきたけれど、別段魅力を感じなかったものな。だってあんなのオカルトだもの。念仏だか真言だかしらんが、坊主がぶつぶつと古代の外国語を唱えて、エイヤっと数珠だかバジュラだかを振り回して、そんで「故人は成仏しました」みたいなことをケロリと言いやがるんだ。ちょっとついていけないよ。みんな創価学会やら幸福の科学やらをバカにするけれど、なかなかどうして、伝統的な日本の仏教やら神道やらだって、トンデモな儀式をやるだろうに。お互い、バカにできないよ。

(ゲルタヴァーナはそんなんじゃない)

 そこへくると上座部仏教は「祈り」とか「呪文」なんかを使わない(経典の音読・暗誦はする)。教えのメインは「瞑想」だ。そしてその瞑想は、びっくりすることだが、確かに「これを続けていけば悟れるんじゃないのか?」と思わせるような現象を引き起こす(感覚や脳にちょちょいといたずらをするメソッドが満載なのだ)。おれも実際にやってみたんだが(サマタ瞑想というやつ)、こりゃスゴイや。なるほど幻想的な体験だ。それでいて、変な物質を身体に入れない、じつに健康的で経済的な愉しみだ。詳しいやり方は調べてみてほしい。

 大乗仏教にはこういう「具体的」で「実践的」なメソッドがなかった。オカルト満載だった。呪文とか、焼香の手順とか、そんなのばっかりで、現代人(都市の人々)には魅力的に映らなくなってしまった。

 対照的に、上座部仏教は呪文や儀式を軽蔑し(厳密に言うと、じつはそうでもないのだが)、瞑想、呼吸、思考、行動などの、具体的実践的な教えを伝授してくれるから、いま注目されているみたい。聞くところによると、医学界にも注目されているとか。

 上座部仏教が日本を征服する日は近い。いや、それは言いすぎだけども、近い将来日本史の教科書にはこうした経緯が載るんじゃない? 間違いないよ。日本仏教界はいま、上座部仏教抜きじゃ語れない状況でしょう。その状況はきっと、一時的なものに留まらないと思う。上座部の寺院は増えるだろうし、出家の比丘(坊主)による托鉢なんかも始まりそうな形勢だね。新宿や渋谷でオレンジ色の袈裟が見られるかもね。

すべての苦しむ人々へ

 苦しみはもう、どうしようもない。先哲が発見した事実はこれだ。「生きることのいっさいは苦しみである」。あなたはいまなにを望んでいる? その望みがかなったらどうなる? いっさいの苦しみは終わる? そんなはずはない。おれはちゃんと実験したからそれを知っている。

 おれはある日チキンカツ定食が食べたくなった。そんだからなけなしの金子をなげうってチキンカツの定食を注文した。そのときのおれのチキンカツに対する欲望といったらとんでもなくて、カツのひときれ口にほうりこめば、この世の快楽のすべてが一気にこの身にふりかかることだろうと本気で信じこんでいた。なんてったってあのパン粉のさくさくなのと、ソースのしょっぱいのと、からしの辛いのと、肉のあぶらの甘いのとが合体して舌を刺激するよ、そんでもって、鼻をぬけていくのはツンとしたチキン臭さ。ああたまらねえなあ。間髪入れずに、いいかい、あつあつの白米を口にぶちこめよ。おれ、忘れるな、日本人ならしょっぱいものと同時にコメをくうんだからな。チキンカツと米飯を同時に喰えばおれはそれでもう人生は終わっていい、満足だ、ゴールだ、最終目的だ、と、こう、妄想していた。そのくらい食欲ってのは激しい。

 注文したチキンカツが届いておれは割りばしをわってそんで、カツをつかんで口に運んで、そんで、じゅわっと脂が広がってそっからおれの記憶はない。もう豚のように食ったからな。食い物を目のまえにした豚に、短期記憶などない。おれはもうそれはもうもう豚だ。あるいは牛だ。なんにせよ家畜だ。馬かもしれんが、いずれにせよよく食う畜生だ。おれは畜生になった。畜生が鼻息も荒く、味覚をじゃんじゃん刺激して、快楽にまみれて転げもだえているんだから、気味が悪い。チキンカツを食う奴は家畜で実際に気味が悪い。本当に、チキンカツを食う奴らは品がないからな。

 事件はチキンカツ5切れ目のときに起こった。

 それはもう、さんざんチキンと衣とメシとを堪能して、宴もたけなわといったタイミングでの、チキンカツ5切れ目だったんだな。おれはまず、舌にチキンカツが衝突した瞬間、こう思った。思ってしまった。

 

「要らねえな、もう。お腹いっぱいなんですからね」

 

 そして、

 

「――いま、おれはなにを考えた?」

 

 あれほどチキンカツを望んでいたおれが、チキンカツを手に入れたあげく、「もうチキンカツいらない。これ以上食べたらお腹が『苦しい』」などとのたまっているんだからね。もうこの世界を貫徹する残酷なシステムの正体は見破られた。

 

「いっさいは苦しい」

「いっさいの望みは苦しみに帰結する」

「希望や夢などは成り立たずすべては苦しみである」

 

 苦しみはもう、どうしようもないんだからね。

 苦しまないように生きた方がいいんだけど、苦しまないわけにはいかないんだから、どうせ、あんた苦しむよ。おれも苦しんでいるが、あんたも苦しいし、可愛いあの子も相当苦しいぜ。おれの苦しみに比べたらあんたの苦しみは苦しみに値いするかどうかわからないくらいの苦しみだが、おれの苦しみだってそう大そうなものではなくて苦しみらしい苦しみの範疇を出ない、そこへ来るとあんたの苦しみもまた捨てたもんじゃないから苦しみの神髄というか、そういうものをすっかり包含している苦しみなんだな。

 苦しみを脱する方法としてファックドラッグミュージックダンスなどを選ぶ連中は苦しみの取り扱い方に不慣れなんだよ。そんなものでは苦しみを増すばかりですからね。どうして蟲にさされたらムヒを塗るんだか、よく考えた方がいいよ。抗ヒスタミン剤が効くんだよ。ファックドラッグミュージックダンスの類は抗ヒスタミン剤どころか、正真正銘のアレルゲンだからやめといたほうがいいぜ。

 苦しみを味わいたくない、というのはちょっと無理だ。科学が発展しようが魔術が発展しようが人間は人間の苦しみを減らすことはできない。減らそうとする試みが部分的に成功したって、また別の苦しみが生まれるからプラマイゼロ。永遠のゼロサムゲームだ。そういうふうに世界はシステマティックにつくられている。観察すればわかるよ。だけどまあせめて苦しみを拡大させない方法くらいは発見したいものだよね。発見した人間いる?

 

 いるよ。

 

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備忘録

・akropolis(缶)

旨い。本数が増える。そして飽きる。

リピート○

 

・スタンレー レモン

着香系のなかではかなり旨い。香りは強い。すぐに飽きが来そうなもんだがこれがどうしてなかなか来ない。

リピート○

 

・スタンレー チョコレート

チョコレート感がない。

リピート×

 

・blue note

akropolisの下位互換。

リピート×

 

・コルツ バニラ

開封時の匂いとはじめの一口は旨い。すぐ飽きる。たまに買いたくなる。

リピート△

 

・ぺぺグリーン2種

なんかイマイチ。

リピート×

 

夢に求める恋の預言


 諸君は夢を見るか。
 おれはよく見る。とりわけ預言的意味をもつ夢を。

 おれが苦境に置かれているとき、夢のなかに必ず美少女が現れる。必ずだ。おれが魂に手酷い傷を負った瞬間から数えて、およそ七十二時間以内にはやってくる。その、夢に現れる少女は、時に上坂すみれの姿をしているが、そうでないこともある。どちらにせよ人並み外れた美しい外見をしている。あんなに綺麗なんだ、きっと人ではないのだろうよ。少女は雪のように真白い、すべやかな腕でおれを撫でつけ、うっとりと甘い声で言うものだ。「貴公はじつに勇敢な、無双の、比類なき騎士であることよ。さればこそわれわれ不死の神々も、ありとあらゆる助力を貴公に与えているのだが。いや、まったくもって、愛おしい勇者だ。命死すべき人間にしておくには、もったいないほどの」。おれはくすぐったくて気持ちが良くて、すっかり無防備になり、少女にだらしなく身体を預けてしまう。少女は慎ましやかに笑って、「勇気をお出し。蛮族どもを殺し尽くす無敵の槍は、すでに貴公の手のなかにある。それは鍛冶を司る神が手ずから鍛えたもので、私が貴公のため特別に運んだもの。神々の住まう山々から、こうして夢の梯子をつたって降りてきてからに」。はたしておれの右手には、ずっしり重い白銀の槍が出現しているのだった。「さ、戦へ行きなさい。神々は人間種族の血なまぐさい闘争を、何よりの見物として楽しみにしているのだから」。

 目が覚める。おれの右手に槍はない。代わりにスマホを握りしめている。昨夜充電し忘れて電池残量0の役立たず、ガラクタ、こなくそ、畜生めが、おれはスマホを窓の外にぶん投げる。朝食のシリアルを腹に詰め込んで、どいつもこいつもバカにしやがる、おれはユニットバスのドアを蹴破った。シャワーを手探りで探す。バカたれめ、シャワーヘッドどこだ、え、え、あ、ありやがった。蛇口をひねる。頭から冷水を浴びて震え、肺にいっぱい空気を吸い込む。そして、どらどら、大音声でおらび上げる。ありとあらゆる罵り言葉を叫んでやる。ガオガオガオガオ吠えて吠えて吠えまくる。犬のようにだ。ずぶ濡れの汚ねえチワワ。近所迷惑ざまあみろ。……一五分。一五分もすれば警察がドアの前に立っている。そら聞け、奴らがおれの部屋のドアを叩きやがる。ドンドンドンドンと、やかましい連中だ。罪状は「犬のマネ罪」ってとこかしら。おれはバシッとスーツを着てドアを開けてやる。「警察です!」「古今無双の英雄です!」。互いの自己紹介が済んだところでさっそく取っ組み合い、おれの得意は先制攻撃だ。敵はひょろひょろの警官二人。まずは掌底を脂ぎった顎にぶち当ててやる。一瞬にして一人目は昏倒。拳銃を抜いた二人目の警官。「動くな!」「無茶言うな!」。動かなかったら勝てる戦も勝てなくなるだろうが、あほんだらめが、おれは腕時計を放って警官を怯ませ、隙をついて接近、腹に一発ドデカいボディーブローをくれてやった。ひと仕事済んだ。……出勤だ。

 日本。東京。23区。山手線。くそったれなオフィス。商人どもに囲まれて、おれの魂の英雄性は鳴りを潜めている。おれは哀れな男だ。両親からまともな財産を相続しなかった。だから浮浪者になった。労働者ってのはつまり、浮浪者だ。田畑も家も女もなにもかも持たずに、都市へほっぽりだされた裸のサル。これほど醜い奴らはない。おれもその一員というわけか? ふざけやがる。どこのどいつがこの、辛い苦しい命運をおれに押しつけやがった? おれは前世の行いが良かったんだから、もっとまともな、財産のある一族の子に生まれることだってできたはずだ。呪うぜ。誰をだ? 商人をか? 右を向いても左を向いても商人商人。気が狂っちまわい。呪うべきは先祖かい? へっ、顔も名前も知らねえや。バカ先祖ども、地獄の居心地はどうだ。……あるいは、神を、か? おれは神を呪うべきなのか……? 

 そこでおれは思い出したんだ。夢をだ。おれの右手には、神の手ずからなる白銀の槍が握られている。おれの魂は、肉体は、見目麗しい女神に愛されている。おれの命運はすべて、神々の目を喜ばせるために、確かに喜劇めいた展開をなぞっている。神々! いるんだ、絶対に。おれと夢で通信する、あの、不死の一族。美しい女神。ふつふつとわき上がってくる、こりゃなんだい……恋心! おれは神々に恋をしている。神々はおれにとびきりの武具を貸し与えてくれた。こいつをつかって精一杯暴れろというのだ。はたして愛する女の頼みを、無碍に断れる男などいるだろうか、それが地上のいかなるメスよりも美しい恋人だとして? 否。 おれはそうだ、肯定しよう。命運を。

 だいたいそういうわけなんだ。おれの夢見は。

 諸君はどうだい。