『ダルタニャン物語』その知られざる魅力
おれに『ダルタニャン物語』の話をさせないほうがいい
おれに『ダルタニャン物語』のことを語らせたら大変だよ、そりゃもう比喩ではなくほんとうに24時間くらいぶっつづけでしゃべり続けかねないからな。おれをとっつかまえて「ダルタニャン元帥のことを教えてくれ」と言ってごらんよ。そしたら貴公の一日は、まるまるダルタニャンの武勇伝を聴いてそれで終わっちまう。飯を食う暇もないだろうからな。そのくらいおれは『三銃士』『二十年後』『十年後』にいれこんでいる。心酔している。偉大なる著者アレクサンドル・デュマを「師」と仰ぎ尊敬している。
人にはひとつくらい、そういうものがあるだろう。「この物語はおれのために創られたに違いない」と錯覚してしまうようなのが。気が狂わんばかりにアイドルにいれこんだり、アニメーションに執着したり、特定のミュージシャンに身も心も捧げたり、と、世の人間たちは意外と忙しくやっている。凡夫であるおれもその例外ではなく、ただその対象が『ダルタニャン物語』だったってことだ。
じつは『ダルタニャン物語』の愛好者というのは世にたくさんいて、みな自分の趣味を隠して生活している。隠さざるをえないのだ。なぜなら「おれは『ダルタニャン』が好きだ」と公言することは、「おれは貴族で、決闘好きで、王権神授説を受持していて、ブルボン王朝のために剣をとる覚悟がある」と告白するに等しいからだ。パリの政治情勢が悪化している現在(2018年12月)、そんなことを公の場で口にしたら、たちまち公安警察にとっつかまっちまう。
まあ、人のことはどうでもいいのだ。おれ自身の話をするとしよう。おれがどのくらい『ダルタニャン物語』に愛着を抱いているかといえば、「まったくの他人が『三銃士』のことを話していたら、剣でぶっつり串刺しにしてやりたくなる」ほど好きなのだ。これは危険な兆候だ。狂人の一歩手前だ。自分が好きなモノについて、他人がどうこう言っているのを聞いたら我慢ならなくなる、というのは、もう病気だ。ストーカーだ。独占欲が強すぎる。
他人に『三銃士』を読まれるくらいなら、いっそデュマの著作なんぞはすべて焼きはらって、人類の歴史から抹消してしまいたい。『三銃士』が映画化するくらいなら、あらゆる国際情勢を無視してハリウッドに百万の軍隊を送りこみ、製作スタッフを拉致・監禁だ。かれらに徹底的な餃子の王将式新入社員研修を施し、もう二度とカメラなんか手にせず、一生をギョウザと接客とに費やすよう教導してやるつもりさ。
申し訳ないが、そのくらい好きなのだ。だから、おれの前でダルタニャンの話をしないほうがいい。それよりもむしろ、おれに、東野猛に、ダルタニャンの話をさせるよう仕向けたほうがよい。おれがダルタニャンの話をする分には、せいぜい貴公の休日まる一日が無駄になるだけで済むが、貴公がダルタニャンの話などした場合には、生命を失う恐れがある。
とにかくおれが言いたいのは、『ダルタニャン物語』にはそれほどのパワーがあるってことさ。悪いが、貴公たちは読まないでくれ。おれのもの、おれだけのもの、だからな。この物語は、詩人アレクサンドル・デュマが、おれのために書き下ろしてくれたものなのだ。デュマの遺言にもしっかりとそう書かれている(アレクサンドル・デュマの遺言状は、辞世の句とともに深谷博物館に展示されている)。疑ってはならない。ゆめゆめ疑うな。さもなくば、決闘ですぞ!
先日、おれの盟友(ゲルタ・ストラテジー・パンデモス建国準備委員会のメンバーの一人)が、「そういやおれのばあちゃんも『三銃士』が好きだったんだよな。なにかあるごとに『三銃士』って言ってた」と明かした。おれはじつに嬉しくなってしまった。老婆が『三銃士』を好む分には、おれの独占欲のフィルターが機能することもないようだ。大変すばらしいじゃないか。老年のたのしみに、胸の内に一匹のダルタニャンを飼っておくというのは、とても明るく陽気で、とことん生を謳歌しようという人間の行いだ。賛嘆すべき偉業だ。話は変わるが赤川次郎の小説にも、『ダルタニャン物語』に惚れこんで頭がおかしくなった男が登場する。おれだけじゃないんだよ、この物語にコロリとやられちまうのは。
『三銃士』は魅力的だ。大変に魅力的だ。恐ろしい魔術だ。決して、読まないように。おれは本当はこの記事で『三銃士』の魅力を逐一解説しようと思っていたが、やめた。危険すぎるからだ。ちょっと言葉の使い方を間違えただけで、貴公たちの人生を台無しにしかねないのだ。繰り返し言うが、『三銃士』ひいては『ダルタニャン物語』三部作を、決して読まないように。