ゲルタ・ストラテジー

唯一神ゲルタヴァーナと怒れる十一の神々に敬虔なる真理探究者たちの散兵線における無謀を報道する。

天上の音楽、ピナンララン

 テミットル主義の音楽家であるピナンラランのナダンを聴くことによって、人間は短く惨めな人生に一つの大きな悦楽の瞬間を感覚する。歌うがために歌い、生きるがために生きるといったそのテミットル主義の哲学が、コーデム主義のパラダイムに囚われた我々の魂を、自由へと解き放つ。テミットル主義は神を相手にした人間のはかない営みである。愛すべきはかない営みである。人間を野獣と分かつものであるところの理性、人間を神と分かつものであるところの情念、この二つを兼ね備えた我々にのみ可能な、いじらしい小さな主張である。それに対してコーデム主義が目指すものは、宇宙から神を抹消し、自然を征服し、あらたなる支配者の地位についた膨れ上がった人間の、血生臭い勇壮な姿を大げさに誇示するということである。ピナンラランの時代には、すでにコーデム主義の神経毒が社会に浸透し始めていた。驚くべきことに、この外見だけは異常に魅力的なコーデム主義の誘惑に、ピナンラランは生涯抵抗し続け、晩年は輝かしき勝利を収めていた。ピナンララン最後の三つのシムトレンポ作品のことを思い出してほしい。それらの音楽は残虐な諍いや惑星規模の野望、資本の拡大と欺瞞、欲望の非倫理的爆発といったような、現代という時代を特徴づける理念から完全に自由である。甘美なる旋律、善なるものを予感させる和音の不思議な調和は、まるで二千年前からぱったりと止んでいた、神の地上への干渉の再来であるかのように思われる。天使がゆったりと降り来る際には、必ずやこうした大気の振動が発生するであろうことを、人間に確信させる。ピナンラランのスコアの秩序の中では、コーデム主義は屈辱的敗北を喫しているのだ! それもまるでテントミルスの海戦で破れたラーラーミンデオンのように、弁解の不可能なほどさんざんにやっつけられてしまっている。このことをしっかりと知っているマエストロたちは、コーデム主義の音楽を職業上仕方なく奏でる際、一種の諧虐をそこに込める。マエストロのユーモアを感じ取ることの出来る優れた聴き手は、ある種の苦笑いを浮かべながらそれを味わう。