ゲルタ・ストラテジー

唯一神ゲルタヴァーナと怒れる十一の神々に敬虔なる真理探究者たちの散兵線における無謀を報道する。

翌日的日誌

今週のお題「好きなアニメ映画」

アニメ映画といえばかくあらんという明確な規範が存在しないと思われがちだが、私の研究したところによれば各方面で様々な価値観や道徳観の明確な発表は一応なされており、規範は存在しないわけではなく無数にあってまとまっていない、直感的には把握できないという事態がほとんど気付かれることなく進行していることが分かった。しかし卓越した哲学者にしてこの世の真理の華たる怒神に近き賢人、及び真理探究に身をささげ唯一絶対無二の礎に背をもたれかかせる聖者達との霊験あらたき論議により、私はこの困難な仕事をなんとか掘削し、金鉱石の手ごたえを感じるに至った。今日はその成果を発表しようと思う。

すなわち、アニメ映画の一つの規範を披露しよう。

アニメ映画かくあるべし

キリスト教的な価値観を一つのテーゼとして作品に組み込み、批判的に物語を進行させよ。」

西洋から先進的な文化(もはや文化に優劣がないというのは文化相対論として定説だが、私の提唱する思想においては文化でさえもはっきりとした評価基準が存在する。)を意識的にしろ無意識的にしろ取り入れ発展してきた日本は、当然啓典宗教が倫理観の根底に混入されるのを拒むことはできなかった。そのためあらゆる文学作品にしろ映像作品にしろ、明治以降の日本の芸術作品は皆例外なく輸入物の道徳に強く頼っているということを見逃すことは出来ない。例えば夏目漱石我輩は猫である』のラストシーンなどは、明らかにキリストの罪を背負いて磔に晒されるの史実を暗喩している。また時代劇などで刀と刀がぶつかり合って交差するのは(実際にはあのように刀同士で押し合うということは実戦では起こり得ない。刀に全身の力を込められるほどの間合いに入ったら勝負は一瞬でつく。相手の指一つ切りつけたらそこで勝負は終わるのだ。)間違いなくキリスト教のモチーフ、十字架が日本人の歴史観に浸透し違和感を感じさせないほどに定着していることを表している。
民衆を導く自由の女神は地球全体を扇動し、全ての人民に国家という帰属先を与えるに至ったが、それ以来人の作る作品で、己の所属する共同体に組み込まれているパラダイムから逃れられているものはない。どんなに避けようと思っても、民族性と歴史の連続からは逃れることはできないのだ。日本人はどうあがいても、そのマスターピースにはキリスト教的精神が宿る。歴史のあてた焼き鏝、運命が彫った刺青。キリスト教的要素をふんだんに含んだ眼鏡を取り去り、裸眼で世界を見つめ、全ての記号を捨て、宇宙を再構成するのがアニメ映画の使命であったれば、かような規範の意味は理解していただけるものと思う。