ゲルタ・ストラテジー

唯一神ゲルタヴァーナと怒れる十一の神々に敬虔なる真理探究者たちの散兵線における無謀を報道する。

動物愛護について

動物愛護の精神はどこから来るのかな。

動物虐待の事件なんかが報道されると、ブログなんかでも多くの人がそれぞれの意見を書くね。
それを今見て回ってたんだけど、中には「社会が、人が狂っている」なんていうコメントが多くつけられてる記事なんかもあるし、逆に「動物の生死を決めるのは人間。そのことに問題はない」という主張もある。

僕は動物愛護は、なされるべきだと思う。
でも僕が想定しているそれは、道徳的、倫理的規範から演繹されたものではなくて、いわば「動物管理」というべきものなんだ。

犬や猫などの哺乳類を殺傷することに法的な制限がなくなったら、死骸が放置されて街の景観を汚すかもしれない。心理学的な知識はないけど、もしかしたらそういった身近な哺乳類を殺すことが(もしくは、殺す現場を市民が目撃しやすい状況が)社会に不利益(人心の荒廃、治安の悪化)をもたらすのかもしれない。

つまり倫理的な理由じゃなくて、上記のデメリットが科学的に証明されていることを前提に、社会的な損得の面を根拠にして、僕は動物愛護を主張しようと思うんだ。

僕自身の道徳的な観点からの意見はどうかというと、動物を殺傷することに疑問は無いよ。
動物虐待する人が狂っているとするなら、それは確かに我々の社会に浸透している常識から外れている、という意味では狂っているのだろうけれど、その「狂っている」という言葉に含まれたかなり攻撃的なニュアンスについては疑問を抱くね。
もし僕が誰か他者を「狂っている」と形容して攻撃するときは、その攻撃の根拠である「そいつの存在は僕にとって不利益だ」という主張をしっかりと自覚するよ。
でも、始めに挙げた、動物虐待した人を「狂っている」と判断する人たちは、ひょっとしたら「我々にとって動物虐待犯は大変不利益だ、故に攻撃、排斥する」という自覚がないんじゃないだろうか。
そう、まさにこの点だ。この点が動物愛護についての胡散臭さを発生させるんじゃないかと思う。
彼らは漠然ともっている正義感、倫理、道徳に基づいて、つまり、「自分は善であり相手は悪である」という前提があって、そこから意見の主張が行われるんじゃないのか。
言い換えれば、相手を攻撃する根拠が「我欲す」であるなら、分かりやすくて文句の挟みようもないけれども、それが「すべきである」という規範になってしまうと、その規範の正当性への疑問が発生し、それが議論をさらに深みへ誘っていってしまうということじゃないかな。
動物愛護を主張するなら(別段動物愛護に限らないけれども)、僕は「我欲す」を根拠にしなきゃ嘘だと思う。すなわち、「動物はかわいい、苦しんでる姿を見るのは自分の趣味に反する、だから動物愛護を主張する」だとか「動物をある程度保護しなければ、自分の生活に影響が及ぶ、だから動物愛護を主張する」といったものだ。

これらを自覚していなければ、つまり意見の根拠が漠然としたままでは、やがては主張が主張者自身の利益に必ずしも適わなくなる、という事態が発生するんじゃないだろうか。

宗教的理由でもなんでもいいから、僕は動物愛護者の口から「動物は守られるべきである」という主張の根拠を聞きたいと強く思う。この主張の根拠にまた「なぜなら全ての人間は全ての生命を等しく守るべきだから」なんていう正当性が不明な規範が来てしまったら、議論は堂々巡りじゃないかな。