ゲルタ・ストラテジー

唯一神ゲルタヴァーナと怒れる十一の神々に敬虔なる真理探究者たちの散兵線における無謀を報道する。

私と私の友人たちはみなとんでもない大金持ちである

 陰矢の如し。過ぎゆく日々と乙女の可憐は、夢まぼろしの如くなり。赤の他人の、夕べ見た夢の話ほど退屈なものはない。しかし私自身で見た悪夢や友人諸君の愉快な淫夢の話にならば、私はわくわくして耳を傾ける。それは楽しい心の慰めになる。時間を忘れて、過去の美しい夢のような昔話に興じるのも良い。どうしてか同じ夢でも、とるに足らない男のものはつまらないことこの上ないが、才ある男のそれは我々にとって甘い汁気たっぷりの果実である。霊感に満ちたその果実は、単に美味であるだけでなく、我々の生に豊かな栄養を与えてくれる。

 は2年前から日記をつけている。なぜなら、私の思索と行動を書き残すことで、我が愛すべき人類に、あるいは真理を愛好する未来の友人たちに、これ以上ない贈り物をしてやろうと考えたからだ。ルソー『告白』、ミル『ミル自伝』、アンデルセンアンデルセン自伝』、シュリーマン『古代への情熱』などなど――人類史上の賢者たちによって著された、これらいかなる宝石よりも価値のある自伝的書物は、疑いようもなく人々の魂に勇気と知への敬愛を教え、オデュッセウスに助力を与えるパラス・アテーネーの如く、われわれの女神とも師とも友ともなってくれている。私の日記もやがてはそうした類のものとなるだろう。私の日記は美しい過去を、つまりは美しい夢を語る。私の日記は栄養に満ちた黄金の林檎である。

 ころで日記というものの素晴らしい点は、他人にとってそれが愉快であるかどうかに関わらず、少なくともまず自分にとっては他に類を見ないほど良質な娯楽となりうることだ。懐かしい音楽を聴いた時に抱く、胸の中身が浮遊するようなあの心地よい感覚――ノスタルジー。血気盛んな若き日の気炎を、老齢になってから、じっくりと書斎で読み返すことを思ってみよ。その老人、身体がすっかりくたびれて、恋とも名誉とも無縁になったしわくちゃの男が、50年前の日記を開いた瞬間、ノスタルジーの力によって若返り、在りし日の蛮勇を思い出しては、騎士甲冑を着込んで風車や獅子に戦を仕掛けないとも限らない。気力の萎え崩れた老人を、唯一復活させることのできる妙薬は、ノスタルジーをおいて他にない。

 は日記をつける。それはやがて人類の財産になる。ペルシャ王ですら所有したことのない、高価で、貴重で、偉大な財だ。しかしそれは私が墓の下で永遠の眠りを愉しみはじめてからのこと。私が生きている間は、それは私と友人たちのものだ。すなわち私の存命中、私と私の友人は歴史上のいかなる王をも圧倒する、莫大な富を所有していることになる。なんといってもあの秦始皇ですら手にしえなかった、不死の霊薬を懐に抱いているのだから。もはやわれわれは王の王だ。皇帝、だ。私とあなたたちは、みなとんでもない大金持ちである。