ゲルタ・ストラテジー

唯一神ゲルタヴァーナと怒れる十一の神々に敬虔なる真理探究者たちの散兵線における無謀を報道する。

私の高校進学前夜、スクールカースト急降下

 みなさんご存じの通り、少年時代の私は森羅万象の祝福を受けつつ成長し、この世でもっとも美しく尊い恋、小学生とのねんごろな関係を経験するほどの猛勇であったから、当然ながらスクールカーストと呼ばれる序列においても最上層に位置していた。脚が速いことイコール人間的魅力、という特殊な価値観がまかり通っている小学生社会においてだって、私の活躍はなかなか馬鹿にできたものではない。体育の時間はいつもきゃあきゃあと女の子たちの黄色い声が私を追いかけてきた。彼女たちの恋バナの主な登場人物の一人がまさにこの私であったし、実際に数人の少女が、はかなく甘い恋心を私に打ち明けたものだった。

 そんな私のことである。すでに幼少期からアルキビアデス、あるいはアレクサンドロスの生まれ変わりかというほどの才気を見せていた英雄の卵のことである。それほどの男が高校進学を期に、スクールカースト下層への電撃的都落ちを経験した、と聞かされたところで、素直に信じようとする諸君ではあるまい。しかし、事実は小説よりも奇なりとはよくぞ言ったもの、高校生になった私ははたして、女どもの人気をすべて失い、男どもの尊敬をこれっぽっちも得ることがなくなったのだ。どうしてそんなことになったのか? 神々のいかなる介入があって、そうした悲劇が成立してしまったのか? 少なくとも当事者である私だけは、その原因らしいものを知っているし、語ることもできる。今夜、幸運にもこうした機会を神々からいただいた私は、ゆめこのチャンスを無駄にすることなく、遍歴の途にあった英雄の、無惨な敗北の歴史について述べうるところを述べなくてはならない。

 あれは3月、高校入学を間近に控えた春休み、ある寒い日のことだった。

秋葉原の犯罪者予備軍どもが崇め奉ってやまない、『萌えアニメ』とかいう得体の知れぬ不気味なものをどれ、いっちょう、話の種に見てやろうかな」
 
 どういう思考の経路を辿り、そのような企みを胸の内に生み出したのか、それは私も覚えていない。だが中学二年のころからテキストサイトnumeri」を舐めるように熟読しつつ、「探偵ファイル」のリンクから飛べるいかがわしいサイトを、食い入るように見つめてアプロディーテーの業に勤しんでいた私、大衆インターネット文化というものにまったくの無関係を決め込んでいたわけではない私が、オタク・カルチャーに接触するのは時間の問題だったはずである。だから、さほどの熱量があったわけではないが、とりあえずたびたび目にする「萌え」というワードに好奇心を促され、そうした行動を選択した私を非難する権利があるのは、ただ神々と、恋の武力によって私を征服してしまった女性美の僭主、上坂すみれ嬢のみであろう。まあそれはいいとして、とにかく私は「萌えアニメ」というものを鑑賞しようという気を起こした。さしたる予定もない、自由すなわち無為の春休みのことである。決定は即座に実行へと移される。PCを起動した。2003年製のデスクトップ。OSはウィンドウズXP。さあ見るぞ。

 …………なにを?

 一口に「萌えアニメ」と言ってみたところで、具体的にはなにを見るのか? ノープランだった。そこで私は記憶を漁り、私のような門外漢であっても知っているような、もっともメジャーでオーソドックスな「萌えアニメ」のあることを思い出した。「涼宮ハルヒの憂鬱」。これである。これだったら私も知っている。気取ったタイトルからは、このアニメ(本当はラノベ)がいったいどんなキャラクターによる、どんな筋書きの物語なのかまるで予想がつかないが、「ハルヒ=萌え」ということくらいはなんとなく知っているのだ。

「よし、『涼宮ハルヒの憂鬱』にするか」

 私の人生第一号「萌えアニメ」は、かくして「ハルヒ」と相成った。私は「ハルヒ」を鑑賞し始めた(※あの驚嘆すべきホメロスだって、英雄たちのつまらぬ日常生活の一挙動、下らない生理現象までは細かく描写していない。いかに偉大な詩人であっても、いや、偉大な詩人であるからこそ、語るべきでない些末な部分については賢明な沈黙を選択するのである。私も詩人に倣い、いったいどのような「手段」で「ハルヒ」を視聴したのか、その方法については沈黙を決め込む)。

「いやあ、これが萌えってのか。秋葉原の連中はこういうのが好きか」

 文芸部部室で朝比奈みくるが脱がされるシーンなどは、齢十五の私がアプロディーテーのことを思い出すのに十分な色気を誇っていたが、その他はまあ、熱狂するほど面白いなどとは感じなかった。私は台所からポテトチップスを持ち出してきて、つまみ始めた。

萌えアニメ、こんなものか」

 この時までは、そんな軽口を叩いていられた。

 異変が起こったのは、物語に重大な転機がもたらされる回、長門キョンをマンションに招き、正体を明かしたシーンのことであった。

 ――槍で突かれたがような衝撃。

 当時、杉田智和に心配されるほどの貧乏をしていた茅原実里の、対有機生命体コンタクト用インターフェース長門有希の無機質、非人間性を見事表現してみせた名演技。ごく現実的、現世的な思考をもつキョンの独白によって、作品世界は「宇宙人、未来人、超能力者、異世界人など出てこない」我々の住むリアルと同一のものである、とミスリードさせられていた私は、現実と超現実の交差するそのシーンに度肝を抜かれたのだ。全身が硬直した。鼓動が加速した。手に汗をかいた。画面から目が離せなくなった。そして、時間の感覚がなくなった。ただ彼岸から聞こえてくるような茅原実里の声だけが、私の両耳に浸入して魂の各部にアドレナリンを送り込んだ。

 気がつけば、私は「ハルヒ」を全話視聴し終えていた。

 私は呆然としていた。これまであまり読書などしたことがなく、良質な物語に触れるという機会を自ら掴もうともしていなかった私にとって、「ハルヒ」が叩きつけてきた技巧的な演出は、ほとんど麻薬的な魅力を放つものだったのだ。私は立ち上がった。部屋を見渡した。PCを見下ろした。窓から外を眺めた。すでに世界は、私が「ハルヒ」を見る前の世界と同じものではなくなっていた。私は座り直し、検索エンジンに「ハルヒ」というワードを打ち込んだ。いったいこの物語はなんだ。「ハルヒ」は私の生きていた世界に、どんな魔術を施したのか――

 気がつけば、私は書店で「ハルヒ」を全巻(既刊分)購入していた。

 PCで検索をかけて私は、「ハルヒ」がラノベ原作であることを知ったのだった。それを知ってから感覚としては三十秒後。たしか三十秒前にPCの前を立ち上がったはずの私は、もう小脇に「ハルヒ」の文庫本を抱えて、PCの前に舞い戻ってきていた。自宅から十五分の書店へ自転車で向かい、ラノベ棚をうろつき、「ハルヒ」をレジに持って行き、金を払い、品物を持って帰宅するという一連の記憶が、まったくないのだ。自分の身体が自分以外のものに操作されているような奇妙な感覚だが、不思議と嫌な気分ではない。私がいて、「ハルヒ」がある。「ハルヒ」が私を動かし、「ハルヒ」が世界を規定する。

 その日、食事をとったのかも、風呂に入ったのかも覚えていない。覚えているのは、こたつに潜って、時間という概念そのものが世界から欠落したのだとでもいわんばかりに堂々と、おそらく夜を徹して、ひたすらにページをめくっていたことだけだ。両親はなにか私に注意をした。それからもう一度、両親は私に注意をした。二回目は、一回目よりも激しかった。たぶん一回目は夜で、二回目は朝だと思う。一回目は「夜更かしせずに早く寝ろ」で、二回目は「まだ起きてたのか! もしかして徹夜で、こたつに潜って本読んでたのか! 気でも狂ったか!」というような内容じゃなかったろうか。説教の内容なんて耳に入ってこなかった。なぜならその時、私はすでに「ハルヒ」から、天地をひっくり返す二度目の衝撃を受けていたからだ。すなわち、「消失」である。

 「ハルヒ」という作品、そのなかでも「憂鬱」「消失」、二つの天災に襲われた私が、その後具体的にどのようなエピソードを積み重ねてスクールカーストを下っていったのか、それは想像に難くないことと思う。この思い出の後日談は、たぶん聞いていてあまり愉快なものではない。一つ言えるのは、私は今でも当時を思い出して、枕に顔を埋め半狂乱で泣き叫んでいるということだ。以上の証言から、私の都落ちの原因が「ハルヒ」との邂逅にあるということだけは、火を見るより明らかじゃないだろうか。

 しかし、「ハルヒ」と出会ったことを後悔しているか、お前はスクールカースト上層の特権を死守したかったのか、と問われれば、私は即座に首を横に振る。私にとって青春とは「ハルヒ」と共にあった日々のことであり、「ハルヒ」を通じて得た知人、文物と共にあった時間のことを言うのだから。そうした記憶のなかには、一片の後悔も混入してはいない。